どんな暗号に興味がありますか?
誰にでも簡単に扱えるシーザー暗号か。
未だ解読されていない暗号文書か。
軍事機密を保護するための暗号か。
ヒエログリフや線文字Bなどの暗号のような古代文字か。
インターネット通信の暗号技術か。
原理上、解読不可能な暗号か。
『暗号解読』は暗号作成と解読の歴史をまとめた本ではありますが、そこにはさまざまな人間ドラマがあり、壮大なロマンを感じる1冊でもありました。
暗号という秘密めいた響きにはそれだけで興味を惹かれますが、著者が前書きで語っている「暗号作成者と暗号解読者との戦いは、ときに歴史の流れを劇的に変えるほどの知の軍拡競争」という言葉の意味は、本を読み終えたときに実感しました。
上巻では、古代の暗号から暗号機エニグマまでの歴史が概観されました。
下巻では、第二次世界大戦中にアメリカ軍で“コード・トーカー”と呼ばれ活躍したナヴァホ族の暗号兵、古代文字の解読、公開鍵暗号の誕生秘話などが描かれています。
解けない暗号:第二次世界大戦で活躍したナヴァホ族のコード・トーカーたち
第二次世界大戦で、アメリカの先住民ナヴァホ族が暗号兵として活躍していたなんて知っていましたか?
私は初めて知りました。
ナヴァホ族が話すナヴァホ語は非常に難解で、特別な暗号を使わなくとも彼らがナヴァホ語で通信するだけでそれが暗号になったというのです。
ナヴァホ語はアジア・ヨーロッパのどの言葉ともつながりを持たない言語で、動詞は主語と目的語に応じて活用するとのこと。
主語に応じた活用をする言語は多いですが、目的語が「長いもの」なのか「ほっそりした柔軟なもの」なのか「粒状のもの」なのか、などのカテゴリーによっても活用するというのは非常に面白い言語ですね。さらに動詞は副詞の意味をも取り込んでいるという。
発音も難しく、軟口蓋音、鼻音、舌のもつれるような音... と、解読するどころか書き取ることさえ困難だったようです。
ナヴァホ暗号は、歴史上解読されなかったきわめて稀な暗号の一つとなりました。
ナヴァホ族の戦争参加への意志、またナヴァホ語が暗号として採用される経緯や訓練の様子は、読んでいるだけでなんだか感動してしまったよ。
公開鍵暗号の誕生秘話
公開鍵と共通鍵
現在の私たちはインターネット通信が当たり前になりすぎていて、ネットショッピングやインターネットバンキングが安心して使えるのは暗号技術のおかげだと意識することはほとんどない気がします。
インターネットを支える暗号技術として公開鍵・秘密鍵というキーワードはよく聞きますが、それが実際どういうものかは今までイマイチわかっていませんでした。
説明されてもよくわからんという感じで。
でもこの本では公開鍵の仕組みが非常にわかりやすく解説されている。
私が現在仕組みも理解せずにその恩恵を享受しているインターネットの暗号技術は、1970年代の画期的なアイデアによって築かれたものでした。
それが、公開鍵と秘密鍵を使うという仕組み。
これまでは暗号化と復号には共通の鍵が使われており、常に鍵の配送問題がつきまとっていました。送信者と受信者とで鍵を受け渡さないといけないが、その受け渡しがリスクになる。電話だと盗聴されるし、手紙も盗み見されるかもしれない。専門の配達人が配達していたが、それが膨大なコストになっていた。
第二次大戦中のエニグマ機の運用でも毎月各部隊にはコードブックが届けられていましたが、これも相当なコストだったと思われます。
公開鍵と秘密鍵がどうして安全な暗号になるのかというのはぜひ本書を読んでほしいんですが、数学的な部分も一般読者に理解できるよう解説されていて、この著者のサイモン・シン氏とはいったい何者だという疑問さえ浮かんでくる。
サイモン・シン氏は物理学の博士号を取っているサイエンス・ライターとのことですが、専門家が難しい言葉を使わずにここまでかみくだいて説明できるというのは驚異的だと思います。
今のところ、暗号作成者に軍配
上巻のエニグマまでの話では、暗号作成者 vs 暗号解読者の戦いは解読者の勝利となっていました。それまでの歴史上の暗号はほぼすべて解読されていて、非常に高度な暗号を生成していたエニグマさえ解読されてしまっていた。
でも現在使われているこの公開鍵・秘密鍵方式の暗号は今のところは安心して使えていて、その点で言うと今のところ暗号作成者が勝っているということになる。
上巻では暗号ってどうがんばって作っても破られちゃうもんなんだなぁという感じだったので、逆転の歴史です。
ただこれも「今のところ」。本書の最後には、量子コンピューターと暗号技術について触れられていて、今後また暗号解読者(暗号解読マシンか?)の勝ち筋が見えてくるかもしれません。
量子コンピューターは従来のコンピューターをはるかに凌ぐ計算量を持っていて、今の暗号も解かれちゃうかも、ということみたいです。
一方、量子力学を使った暗号というのもまた開発されているようです。公開鍵・秘密鍵方式の暗号解読は「事実上不可能だが原理的には可能」だけど、量子暗号の解読は「原理的に不可能」らしい。
私が生きている間には何かが変わるかもしれない。ですね。
(ここまで書いておいて量子がなんなのかよくわかってないんですが。笑)
暗号に携わる者の宿命
この『暗号解読』を通して感じたのは、暗号に携わる者が背負う宿命のつらさ。
エニグマ解読に多大な貢献をしたアラン・チューリングも、ナヴァホ族のコードトーカーたちも、公開鍵の仕組みを歴史的には最初に発見していたジェイムズ・エリスも、暗号という性質上、自分の成果を公にできませんでした。
何十年も経ち、機密が解かれたあとに初めてその成果が公表されたとき、本人が生きていればまだ報われるもののアラン・チューリングのように亡くなってしまっていたら。
今こうしてその成果は歴史にきちんと残っていて現在の私たちが読めるということは、私たちにとっても救いです。暗号の作成・解読は非常に難しい仕事にも関わらず、成し遂げてもその成果が一般には認められないというのはそのくらい苦しいことなんじゃないか。本書はそのあたりも読者が十分に感じられるように配慮されて描かれている良書だと思う。
暗号という技術を通してさまざまな人間ドラマを読めるノンフィクションでした。
この記事では取り上げていませんが、下巻には古代文字の解読についても述べられていて、特に言語・言語学に興味のある方にとっては面白い内容だと思います。
古代文字の解読がいかに困難で忍耐力が必要な仕事なのかを感じられます。
訳者あとがきの暗号懸賞解説が面白かった!
原書には著者サイモン・シン氏から読者への暗号問題が付録についていたようです。最初に全部解けた人には賞金1万ポンド!(現在の為替レートで約163万円)
完全解答したのはスウェーデンの5人組チームとのこと。
訳書である本書の訳者あとがきにはスウェーデンチームのレポートを元に暗号解読プロセスが解説されていて、これが本書の内容に劣らず面白かった。
しかもレポートに解答が載っていない問題は訳者たちが独自に検証・解読を試みたうえで解説が施されていて、そこまでやったのか! と感銘を受けながら読んだ。
いやこの暗号問題、賞金がかかってるだけあって見た感じ一般人が解くのはほぼ無理そうな問題が並んでいて、これに取り組もうと思うだけでも敬意を表するような暗号問題群なのです。
これに取り組んだ世界中の読者の人たちもすごいし、完全解答したチームもすごいし、訳者の人もすごい。
普通の翻訳者は暗号解読までできるものなのかと思って調べてみたら、訳者の青木 薫氏は理論物理学を専門とする理学博士の方のようで、科学関係の翻訳を主にされているようでした。なるほど。
本書を通して、暗号解読には数学の素質やセンスが大変重要そうなことを感じます。
私は暗号解読そのものをやってみようとかは全く思わないんですが、人が暗号を作ったり解読したりするプロセスには興味があって、その心は「天才の営みを愛でる」。将棋観戦に通じるものがあります。
凡人にとってこのとき重要なのは、天才の思考の完全理解までには至らずとも本質がわかるように解説してくれる解説者の存在なんですが、著者サイモン・シン氏も翻訳者青木 薫氏も私にとっては良い解説者になってくれました。
『暗号解読』、面白かったです。