『博士と狂人』原作:実話と思えぬ稀有な悲劇〜世界最高の辞書OED誕生秘話

『博士と狂人』原作:実話と思えぬ稀有な悲劇〜世界最高の辞書OED誕生秘話

イギリスが誇る英語辞書『オックスフォード英語大辞典』通称 OED の編纂には、精神病院に収容されていたアメリカ陸軍の元軍医が多大な貢献を果たしていました。

元軍医の名はウィリアム・チェスター・マイナー。

精神異常により殺人の罪を犯し、その後の生涯のほとんどを精神病院で過ごした人物です。

『博士と狂人』は映画も出ていますが、原作は映画とは違ってノンフィクションで、OED の編纂主幹ジェームズ・マレー博士と「狂人」マイナー博士、2人の人生と交流を中心に大辞書の誕生話が綴られています。

『博士と狂人』原作は実話

これがもう、事実は小説より奇なりって本当だな... と思わされるような話で、驚嘆と、衝撃と、敬意と、同情と、悲しみと..、なんだろう。いろんな感情が呼び起こされる。

まず辞書編纂については、デジタルの中で生きる私たちからは信じられないような地道で膨大な作業量を必要とする仕事が説明されていて、すごいの一言。非常に興味深い。

この OED という辞書は、すべての語を対象に、あらゆる文献から用例を徹底的に集め、語の意味とその歴史的変遷を示すことが編纂方針とされました。

そしてそれを実現するため、イギリス領土中に「文献を読んで、用例を送ってくれる協力者」つまりボランティアを募ったのです。

その募集を精神病院で知り、協力者となったのがマイナー博士でした。

イェール大学医学部を卒業し、聡明で学究肌だったマイナー博士は独自の方法で単語を集め、必要とされた有益な用例を送ります。作業に追い詰められていた編纂チームは、優れた仕事を迅速にこなす彼の存在に非常に助けられたのでした。

完成した OED の第一版は全12巻、
見出し語は41万4825語、
用例は182万7306例。
製作に費やされた歳月は70年以上。
(現在発行されているのは第2版、全20巻。主にオンライン版で利用されている)

編纂作業は当然ながらすべてアナログ。

協力者は紙に手書きで用例を書き、それを編纂チームに送る。紙は1日1000枚以上が届くこともあったとか。編纂チームはその紙を分類し、意味の変遷がわかるように年代順に配列し、定義を書く(ほかにも細かい作業が多々)。それを a ~ z まですべての単語。

ひえー。想像するだけで膨大です。この作業を熱意と鋼の精神力で推し進めたのがマレー博士でした。

マレー博士は貧しい家に生まれ社会的地位もありませんでしたが、独学で言語学の研究に励み OED の編纂主幹となった人物。

この本の主人公はマレー博士とマイナー博士という対照的な2人ですが、読者の記憶に残るのはやはり狂人マイナー博士のほうでしょう。

マイナー博士は、毎晩見知らぬ男たちに部屋に侵入され虐待されるという妄想に苦しめられていました。そして妄想のなか、侵入者だと思い込んだ無関係の男を射殺してしまう。

裁判では精神異常という理由で無罪となり、ブロードムア刑事犯精神病院に収容されることになりました。

マイナー博士が精神を病んだのは、南北戦争の過酷な従軍経験が大きく影響していたようです。残虐で血みどろの戦いを目の当たりにし、また軍医としてアイルランド人の脱走兵の頬に焼き印を入れる役目を負わされたらしいのです。

※英語の Wikipedia によると、当時北軍が脱走兵に焼き印の罰を施していたかは未確認であるとされています。
参考:William Chester Minor - Wikipedia

南北戦争の描写は読んでいてつらいものがあります。読んでいるだけでつらいのに、実際にその場にいるとはどれほどの体験なんだろう。

マイナー博士の狂気は、自身の性器切断という衝撃的な事件に一番現れているように思いました。精神が錯乱して我も忘れて切断したのではないのです。その冷静さがきっと本物の狂気なのだろうと感じました。

マイナー博士は、最終的には現在でいう統合失調症と診断されています。

当時は病気に対する理解も治療法もありませんでした。最初にアメリカで精神異常の兆候が見られたときから、イギリスで殺人を犯し、その後生涯を精神病院で暮らす間、治療を受けることなく妄想の症状に苦しみ続けることになります。

しかし、その苦しみと引き換えに OED への多大な貢献が生まれ、OED が誕生したとも言えます。本書にもある通り残酷な皮肉です。

アメリカの名家出身で立派な教育を受け、努力して陸軍内での出世も果たしていたにも関わらず精神を患い殺人を犯したマイナー博士。その後は精神病院で暮らしながら OED 編纂という大事業に貢献したという、なんという数奇な人生でしょうか。

『博士と狂人』映画と原作の違い

映画は私はメキシコで観たんですが、ノンフィクションの原作とは違って大きく脚色されていた印象。

原作はノンフィクションですが、映画はフィクションですね。

映画のストーリーはドラマチックではあるんですが、、、映画だけ観ていればそれはそれで良いかもしれませんが、原作で実話を知ってしまうと映画のストーリーはちょっとな... となる。

特にマイナー博士が殺してしまった男の未亡人とのロマンスはちょっと受け入れられない。

(原作では、未亡人との交流はあったものの未亡人が飲酒にふけり数か月で交流は途絶えたとされています。未亡人とのロマンスは可能性の1つとして書かれていますが著者の推測です)

マレー博士とマイナー博士の出会いと交流についても、原作に書かれている事実のほうが魅力的だし興味深い。

原作も、記録が残っていない部分については推測や想像として語られていて、事実がはっきりしていないところもありますが、著者がそれなりにうまく再構成をしていると思います。

『博士と狂人』書誌情報

書籍名:博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話
著者:サイモン・ウィンチェスター
訳者:鈴木主税
出版社:早川書房
発売日:2017/9/30

  1. 深夜のランベス・マーシュ
  2. 牛にラテン語を教えた男
  3. 戦争という狂気
  4. 大地の娘たちを集める
  5. 大辞典の計画
  6. 第二独房棟の学者
  7. 単語リストに着手する
  8. さまざまな言葉をめぐって
  9. 知性の出会い
  10. このうえなく残酷な切り傷
  11. そして不朽の名作だけが残った

辞典編纂作業、マレー博士の人生、マイナー博士の人生、それぞれのエピソードがしっかり深掘りされていて、ボリュームは多いのですが一気に読めてしまうタイプの本です。

41万語以上の収録語数を誇る世界最大・最高の辞書『オックスフォード英語大辞典』(OED)。この壮大な編纂事業の中心にいたのは、貧困の中、独学で言語学界の第一人者となったマレー博士。そして彼には、日々手紙で用例を送ってくる謎の協力者がいた。ある日彼を訪ねたマレーはそのあまりにも意外な正体を知る―言葉の奔流に挑み続けた二人の天才の数奇な人生とは?全米で大反響を呼んだ、ノンフィクションの真髄。

『博士と狂人』(早川書房)
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